2011年1月26日水曜日

見えないものが見える人

なにをするかよりも、どんなふうにするかが暮らしを鮮やかにします。
しかし、それを本当に知っていて、実践して人は一部しかいません。

大人なら忙しいのが普通です。
だからできるだけ時間をかけずにすませたいと思う。だからと言ってどんなふうにするかといことは違う次元のことです。

スーパーで売っているパックに入った惣菜をそのままの容器で食べるのと、お気に入りの食器に移し変えて食べるのでは全然違います。

プレゼントだって同じこと。買ってきたものを、そのまま右から左に贈るのではただ物を贈るだけのこと。それでヨシとするなら、お金を出せばいくらでも立派なものが手に入ります。だったら自分よりお金持ちの人には叶わないことを認めることです。そんな負け犬のような生き方はしたくないし、贈る相手にそんな気持ちを贈りたくない。モノさえもらえたら何でもいいのよと考える即物的な人を相手にしたくもない。

だからこそ、なにを贈るかよりも、どんなふうに贈るかが大事だと思います。他の人には真似のできない贈り方に心を砕く。そこに想いがこもる。何事にも想いをこめていくことが、自分の生きた証しなのです。

同じものを見ていても、全く違うものを見つける力は、そういうとところから生まれて育ってきます。それは人間をはじめあらゆること、ものへのつきあいかたに違いが出てきます、即物的な自分になりたくなければ、なにをするかよりもどんなふうにするかにこだわったほうがいい。

ラーメンいっぱい食べるのに、いちいち想いをこめてなんかいられないというのは、そうかも知れないが、そうしてセンスが磨かれていくことも忘れてはいけない。
ディスプレーの小物ひとつにして置き方が変わる。置き方が変わるのは、相手への気配り、アプローチが変わることに発展します。同じ商品を他店と同じように売っていても、どう売るかという点ですっかり変わり、売上の違い、リピーターの違いに変わる。

おしゃれなお店と評判のお店だったにしても、そこに働いている人がおしゃれ、センスがいいとは限らない。とんでもなく即物的でバッドセンスな人が集まっている場合だってあります。それでもなんとか評判を得ているのはマニュアルのおかげということだってあるのです。ただ指示されたように疑いもなくやっているだけ。主体性なんかどこにもなく。言われたことだけしていたらいいという考え。そんな店からは主体性のある人は去っていきます。

いいなりになってマニュアルを尊重する働き方が悪いと言っているわけではありません。それがルールなら遵守することは必要ですが、そこに主体性、つまり責任を引き受ける積極性がないとつまらないものになってしまいます。そんな店では本当の意味で責任を引き受けない人が責任者としてポジションを保てる仕組みです。店は人で決まるのでいくらでもレベルは下がっていきます。

主体性がないからセンスがいいと思われているなんて気持ちが悪くありませんか?ロボットと同じです。人と同じことをしていたら安心というのは、ほとんど依存症の世界です。

見えないものが見える人、聴こえないことが聴こえる人でいたいと思います。それがリーダーの条件です。つまり責任から逃げる人ではなく、責任をとりたい人でいたいということです。自分の世界はもっと楽しくできるのだから。

2011年1月24日月曜日

「絶対に見捨てない」という発想

「ノルウェイの森」のワタナベ君が持った直子への「絶対に見捨てないからね」という気持ち。それは愛情たっぷりで、尊いものだと思うんですよね。

古くは日本中を感動させた実話「愛と死をみつめて」に代表されるようにです。ミコ(女性)とマコ(男性)と呼び合った二人の物語。この場合はミコに「起こった「軟骨肉腫」という難病との戦いでした。阪大病院で出合ったふたりが、同志社大学、中央大学と離れ離れになりながらも、文通を絶やさず、悪くなる一方のミコを励まし続け、最期を看取るまでの物語でした。

この場合の「絶対に見捨てないからね」と、ワタナベ君の「絶対に見捨てないからね」を同じように考えるわけにはいきません。ミコは不治の病に冒され顔の半分を失いながらも、気丈に生きようとし、愛し愛される日々を精一杯に輝かせようとしました。直子には、それがあるのか、ないのか分らない。映画では性の問題のようにセリフになっていますが、直子がこだわっているのも実はそういう問題ではない。その背景にある問題を観客に考えてほしいのだろうと思います。

女性に限らず男性でも、愛しているほどセックスができないということが起こります。それは普通ではないけど、気持ちがその場から、どこかへ飛んでいってしまうのです。その、どこかで起こっている問題を解決しないと、いくら「絶対に見捨てないからね」と意気込んでも見捨てざるを得ない状況に追い込まれて、見捨てることになる。

見捨てるまで、見捨てさせようとする行為が止まらないのです。なぜなら目的が見捨てさせることにあるからです。

愛している、愛してと言いながら、その一方で見捨てさせる行為をとる。相手には「愛して」と言った事実が残り、見捨てさせる行為の「行為」だけが見えて、「見捨てさせる」気持ちが見えません。この場合の「行為」をミコの病気のようにとるから、「絶対に見捨てないからね」と考えてしまうのですが、そこが間違っているのです。

励ます点ではどちらの心情も同じですが、見捨てないことが見捨てさせようとする気持ちをエスカレートさせてしまうのです。つまり励ましている人が病原菌の役割をしてしまう。ワタナベ君がそれを知っていての慟哭なら、その後の人生で別人になってしまっても不思議ではありません。

しかし、どのような関係であっても、「絶対に見捨てない」あるいは「絶対に別れない」というのは不自然です。別れることがいいとは言わないまでも、どのようなことがあっても別れない関係とはいかなるものでしょうか。