2010年6月27日日曜日

感情的な行動

感情的な行動とは、感情をそのまま行動に移すことです。たとえば混雑した電車の中で足を踏まれたとします。この場合、痛みと不愉快な気分でイラッとしても、踏んだ相手に怒りをぶつけないのが一般的です。
怒りをぶつけないのは、怒りがないわけではありませんが、踏んだ人も悪意があったわけでなく、踏んでしまう環境が原因にあり、仕方ないと判断します。
合理的な事情を計算して、怒りを抑圧します。これが感情的に行動しない一例です。

感情的な行動とは、感情をそのまま行動に移すことなので、怒りをそのまま相手ににぶつけます。

たとえばビールを飲みたいと思っても、まだ昼だからとか、車の運転があるからとか、立場や事情を考えて、帰路につくまで待ちます。これができずに飲みたいと思えばそのまま行動に移してしまうのが、感情的な行動です。

感情は行動に移さなくていいのです。私たちの暮らしている世界は、いろんな人と共存しています。共存できるように、ルール、法律、マナー、エチケットによって互いに尊重し、不愉快な気分にさせないように配慮して暮らしています。これを前提にしているから共存できています。 私たちは、ただ単に合理的だから、便利だからという 理由を優先して暮らしているわけでも、感情を優先して暮らしているわけでもありません。

アルコールによって、コントロール機能を失った状態の人は、感情をそのまま行動に移す傾向があり、周囲は迷惑を被ることがしばしばあります。
感情そのものが問題でも、アルコールが問題なのでもなく、感情をコントロールできなくなるのが問題なのです。

感情の処理の仕方でコミュニケーションは変わります。

感情そのものはどのようなものであっても、自分の内側に生じたものなので、いい感情も悪い感情もなく、感情を否定する必要はありません。
それを可能にしているのは、感情をそのまま行動にしないコントロール力があるからです。

腹が立って殴ってやりたいと思う場合もあります。これは感情で自然なものです。行動に移さないから、感情を持つことは許されているのです。もし行動に移すなら感情そのものが暴力になってしまいます。これではストレスがたまる一方になります。

幸福な感情の場合にも、感情のまま行動すると後々問題になる場合があります。
感情は気分ですから、「あのときは結婚したい気分だった。いまはそんな気分ではない。」と後になって言われたら困ります。よく考えた末の判断は安心につながるわけです。

2010年6月13日日曜日

気後れして、うまく会話できない

 コミュニケーションを考えるとき、是非とも知っておいていただきたいことがあります。知っただけでは役に立ちませんので、行動してほしいことです。

 人は、いまこの瞬間にしか生きていないということです。

 1秒先に、自分の生命がなくなっているかも知れないなんて言うと、「理屈はそうだが」と言って笑って終わりになりそうな話です。

 それはそれでいいのです。
 でも理屈ではなく、そのように行動してほしいのです。

 思えば、科学は不可能を可能にしてきました。
 しかし現在の力では、過去には戻れません。
 未来にも行けません。
 人はいまいるこの瞬間にしか生きることはできません。

 だから、先のことを準備するのはいいことでも、不安に思うことは賢明ではありません。
 過去のことを反省するのはいいけれど、引きずることは賢明ではありません。
 因みに反省とは経験を活かすことです。

 過去をひきずり、先を不安がる。
 そのくせ、反省をしないで、準備もしない。
 これでは進歩しようがありません。

 分かっているけど、それができないと思うかも知れません。
 できないなら、しなくていいのです。
 自分の人生ですから、自分の選択です。

 でも、なにかにつけて、少しでもよくしたいのなら、できないではなく、できるようにしていかないとコミュニケーションも思うようにできません。
 隠された人生脚本の罠にはまらず幸福になるには、出来ないで終わりにしないで、やった、やっているにするのです。


 コミュニケーションが思うようにできない人には共通した傾向があります。
 自分のイメージが高すぎる。つまり自分は立派な人だと考えている。
 立派の基準がなにかよく分かりませんが、そのようです。
 その反面、自分を信頼していません。
 信頼できないのは、自分のイメージが立派すぎて、届いていないと感じているからです。
 事情がなんであれ、勝手に高いイメージを作っておいてできない、できないと言う。
 ようするに一言で言うと考えても仕方のないことを考えている。

 だから相手と対面しても、立派に見せよう、立派に思われたいと、どうでもいいことに注目しすぎて、気後れして、言葉が出ない、声が出ないというような状態になります。
 「気後れ」とは、他のことを考えているから、いますることについていけない状態です。

 考えながら食べる、考えながら運転する、考えながら話すことはできますが、考えながら別のことを考えることはできません。

 ですから気後れが起こります。

 自分のことに注目するのは自分の勝手ですが、相手にしたらどのように映るか、考えたいものです。

 相手にしたら、自分を歓迎してくれているのか、どうか分からないので不安になります。
 気後れしているのかどうか相手は分からないのです。そこまで考えないのがほとんどでしょう。
 不安になると敬遠したくなります。

 敬遠を察知すると、相手が自分を嫌った、受け入れなかったと考えます。
 これでは「ひとり芝居」です。
 相手への気配りがないままです。

 自分は相手に受け入れられたいので、相手の顔色を伺っている。
 だから相手への気づかいばかりしていると錯覚します。
 相手の顔色を伺っているのは、自分への注目だけです。

 相手の顔色を見るなら、元気そうか、疲れていないか、悩んでいないか、相手のことを心配してあげるようにしたいものです。

 相手が安心できるように、明るい元気な声で
 「おはようございます!今日は天気もよくて気持ちいいですね。お身体の調子どうですか?」と声をかけます。
 これでコミュニケーションはスタートできます。
 後は自然に展開します。

 考えても仕方のないことを考えて、いまこの瞬間から遠のくことは、誰にとってもプラスにはなりません。

 なぜなら、赤ん坊も大人も老人も、犬も、猫も、鳥も、みんな、いまこの瞬間にしか生きられないからです。

 それを無視して、自分は違う空間に生きようなんて、そんなことしていいはずないのです。違う空間にいて健康なコミュニケーションができるはずがないのです。

 気後れの正体が分かれば、すぐに改善です。

 どうしても「気後れ」が直らない?
 それもありです。自分を否定する理由にもならない。
 それも個性なのです。
 自信を持ちましょう。


コミュニケーション力の悩みから解放するライフスキル講座

2010年6月12日土曜日

社会人になる前に知っておきたいこと。

 幸福になるために、必要なスキルがあります。
 特にコミュニケーション、仕事は大事なので必要なスキルがあります。
 その分、必要でないスキルは気にしないようにしましょう。
 幸せになるために、必要と不必要なスキルの棚卸しをするようしましょう。

 できない、できないと思いわずらう人がいます。
 人は神様ではないのでできないことがあります。
 それも簡単なことができない場合も少なくありません。

 むしろ本当に注目すべきことは表面的な事象ではなく、その背景に潜んでいる問題です。
 つまり「人生脚本」のことです。

 人生脚本とは、自分でも気がつかない間に、自分が自分に用意した自分の生涯の目的です。
 わたしたちは、幸福になりたい。健康でいたい。賢くいたい。美しくいたい。と願います。 
 ところが願望に反して、不幸、不健康、愚か、醜い姿を選んでしまいます。
 もっとも本人には選んだ感覚はありません。
 潜在意識は実現するといいます。
 その言葉通り、実現してしまのは、表面的な意識以上に強い潜在意識が自分の人生脚本を書上げ、その脚本通りに行動してしまうからです。

 実に簡単なことができないという人がいます。
 確かにそういうことってあります。それは嘘でもなくそうだと思います。

 自分は新入社員研修を数多くこなしているので、そういう経験を沢山しています。
 習慣がないので、できないのです。
 ほとんどの場合、繰り返しトライすれば解決します。
 解決できるのは、本人が意識して取組むからです。

 その場合、トレーニングする者の視線が背中を押しています。
 つまり、できない原因に「甘え」 があることは否定できません。

 さて、できないことは誰にでもあります。
 だからーできないことがあっても、それで全人格が否定されるものでもありません。
 でも、本人ができた方がいいと思うなら、それはそれでいいことです。
 実行すればいのです。

 したいことは努力してできるようになればいい。
 パソコン、英語、習字を学習する要領です。
 個人差があるので、すぐにできなくても出来るようになります。

 私が新入社員研修で結果を急ぐのは、それができないと仕事にならないからです。
 新入社員ができるようになるのも、その目的や意味を理解して努力してくれるからです。

 新入社員君にしたら、いままで経験したことのないような厄介もなく会社生活ができるほうがいいでしょう。
 しかし「何も問題なく人生を過ごせたら……」という願望を理解することはできても、それは生活全般を無為にしてしまうことにつながっています。
 それは恐怖心のために、せっかく”オギャー”と生まれ出てきた子宮の羊水の中に戻る退行です。
 生まれたことを後悔しているような行為だからです。

 教育する立場で、それを許すことはできない。
 人生は個人的なものですが、共同体の一員として放置できない。
 それを認めることは「あなたはいなくてもいいよ。」というようなものだからです。


 必要なのに、できることを避けて通ろうとする場合、安全を求めて世話をされることを求めて、守ってもらえる、依存できる相手を見つけようとする意識が働いています。

 しかし、本当のところ、恐怖心と実際の能力は比例しているわけではありません。
 困難な仕事に必要な能力を持っていても、挑戦しようとはせず、自分にはできないと都合のいい合理的と思われる理由を見つけます。
 あるいはやってはみるものの、うまくできないと自ら失敗に向かいます。

 自分にはできないと都合のいい合理的と思われる理由を見つけます。
 あるいはやってはみるものの、うまくできないと自ら失敗に向かいます。
 自分には能力がないことを繰り返し証明してみせます。
 そして自分を責める・・・私たちが気をつけるべきは、そこにある「人生脚本」です。

 人生脚本はここにあり、そこにははっきりとした目的があります
 繰り返し証明するには、目的があるからです。
 この目的にあわせて自分を作っているのです。

 私たちは、「あんなこと、こんなことをしていたから、こうなったんだ。」と考えます。
 しかし、それは逆で、「目的 (結果) を達成するために、あんなこと、こんなことをしていた」というのが正しいのです。


 ある人は、永年の努力が認められて昇進しました。
 スポーツマンで、とてもエネルギッシュな人で、人付き合いもよく家庭人としても問題もありませんでした。
 しかし昇進とともに一変しました。
 不安と恐怖心で作った「想像」で、時分の内側にヒステリックな混乱が起こって、無気力になったのです。

 不安と恐怖の原因、理油はさまざまです。
 不安と恐怖は誰にもありますが、好ましくない想像が自立心をくじきます。
 自立心が思うように機能しないと、助けを求めて周囲の人に依存してしまうことは身近にあります。

 依存心が強すぎて、自分から自立心を放棄するようになると、できることでもしなくなります。
 自分にはできないことを証明しょうとするのですから手負えません。
 洞察力のある人たちが、一つ一つ噛んで含めるようにサポートしても効果のないことに疲労と挫折感を覚えるようになります。
 実はこの挫折感こそが、本人の挫折感そのものなのです。
 やがて求めている助けがエンドレスであることに、責任逃れだと思い当たるようになります。

 自分にはできないことを証明しょうとするあ者と、それを止めさせようとする者。
 主体性は、本人にあるので、止めさせようとする者に勝ち目はありません。

 この局面で、するべきことは、主体性を持った本人が自分が何を求めて、何を企て、どのような結果出そうとしているのか。
 それにどのような意味があるのか。
 それで自分がどうなろうとしているのか。
 それを知って進路を変えることです。

 サポーターの忍耐のあるサポートを受けることができても、最後に進路を決めて、進路を変える行動をとるのは、主体性を持つ資格にある自分にしかできないのです。


 不安があり、乗り越えようとしない場合には、持っている能力も実力以下の能力へと押し下げます。
 不安とは、新しいことにチャレンジする際に生まれる、自然な反応です。
 決して悪いものではありません。
 しかしこの反応に身をまかせるだけなら進化はなく、家庭人としてもいい影響がありません。

 完璧主義にように求めるイメージが高すぎるのは問題になります。
 自己イメージに「有能な私」の姿が似合わないと感じるのはロクなことになりません。
 否定的な自己イメージを持っている人は、自分の能力を高めるチャンスが来ても、問題を解決する場面でも、背を向けてしまうのです。

 人は自分の才能を認めることよりも、力がないと思っていたほうがずっと楽なのです。
 そうすれば、他人から嫉妬されることもないし、重い責任を負わずにすみます。それをよしとする理由は人それぞれです。

 どうしてそうなったのか、過去をほり返すより、どうすれば、問題を乗り越える力を発揮できるかを考えたほうが自分の人生にプラスになります。

 間違いなく言えることは、この世界を逃げるようなスタンスで生きることはかえって危険だということです。
 働くこと、暮らすこと、人生に最初から意味があるわけではありません。
 それぞれ個人が意味を発見します。

 暮らしのなかでも、仕事は使い方で生き生きした自分を取り戻す場所になります。
 あるいはより自主的になる、つまりなれる最高の自分になる場所にできるのです。
 最高の自分は最高の家族に通じています。

 「家族」「家庭」は職場と同じような構造をしています。
 職場で身に付ける問題を乗り越える力は、そのまま応用できるのです。

 「何も問題なく人生を過ごせれ ば……」という態度で家族が機能することはありません。
 機能する家族とは、問題がない家族ではなく、問題を乗り越えることができる家族なのです。
 問題を乗り越える力を育む場として、仕事の場以上の場所はないでしょう。

 家族といる時は甘えが通用するものです。
 しかし仕事をするとき、もっとも注意深さが要求されるといって言いすぎではないでしょう。
 それをストレス呼び、切り捨てることは簡単ですが、実はこの注意深さを通して、自分自身に気がつき、より良くしていくために、自分がとるべき方向と方法を発見できるようになるのです。

 それは自分と家族を守る注意深さに通じています。
 仕事は、本来の自分を取り戻す場として、最も有効な場所です。
 学校も挑戦することを求められますが、職場では責任がついてきます。
 人によって責任は重く感じるものですが、それがあるから逃げずに向かうことができる勇気を育むともいえます。

 勇気が乏しいからといって、自分を責めてはいけません。
 仕事は毎日それを問いかけています。
 だから仕事は人生の中心になるのです。
 仕事は教師の役割を果たしてくれるのです。


 安全を求めて世話をされることを求めて、守ってもらえる、依存できる相手を見つけようとすることの危険です。
 
 人間は神様ではないので、できないこあと、できることがあります。
 それは人によって違う。
 したいことなら努力を続けるとできるようになります。
 だからできない、できない。できない私はダメ人間だという意味のない考えに囚われずに、もっと行動しましょう。

 いまこの瞬間、するべきことに集中するのです。
 知っている、知らないが問題ではない。
 分かっている、分かっていないが問題ではない。
 できること、できないことが問題ではない。

 人生で、仕事で、暮らし場面で、大事なのは、
 したか、しなかったか。
 している、していない。だけなのです。

2010年6月8日火曜日

意欲のある生き方が自分を変える

 仕事は人生の中心にあります。

 そのために、人を理解するには、その人が何をして、なにが好きで、どうお金を使うのか、社会的な立場はどうかといったことよりも、何をしているかの方がずっと重要になります。

 さらに言えば、仕事をどんなふうにやっているのか、その行動に外見では判断できない実像と人生の挑戦への姿勢を見ることができます。


 ですから仕事への姿勢は、生活全般を串刺しのように貫いています。自己効力感の低い人は積極的に仕事することを避けようとします。
 「何も問題なく人生を過ごせたら……」という願望を理解することはできても、それは生活全般を無為にしてしまうことにつながっているのです。

 それは恐怖心のために、せっかく”オギャー”と生まれ出てきた子宮の羊水の中に戻る退行のようなだからです。生まれたことを後悔しているような行為だからです。

 このような場合には、安全を求めて世話をされることを求めて、守ってもらえる、依存できる相手を見つけようとします。
 本当のところ、恐怖心と実際の能力は比例しているわけではありません。困難な仕事に必要な能力を持っていても、挑戦しようとはせず、自分にはできないと都合のいい合理的と思われる理由を見つけます。あるいはやってはみるものの、うまくできないと自ら失敗に向かいます。そして自分には能力がないことを繰り返し証明してみせます。

 また、昇進を言い渡されると、不安と恐怖心で作った「想像」でヒステリックな混乱を起こし、助けを求めて周囲の人に依存してしまうこともあります。洞察力のある人たちが、一つ一つ噛んで含めるようにサポートしても効果のないことに疲労と挫折感を覚えるようになります。実はこの挫折感こそが、本人の挫折感そのものなのです。やがて求めている助けがエンドレスであることに、責任逃れだと思い当たるようになります。

 不安が実力以下の能力へと押し下げるのです。不安とは、新しいことにチャレンジする際に生まれる、自然な反応です。決して悪いものではありません。しかしこの反応に身をまかせるだけなら進化はなく、家庭人としてもいい影響がありません。

 自己イメージに「有能な私」の姿が似合わないと感じるのはいいことではありません。求めるイメージが高すぎるのです。否定的な自己イメージを持っている人は、自分の能力を高めるチャンスが来ても、問題を解決する場面でも、背を向けてしまうのです。

 人は自分の才能を認めることよりも、力がないと思っていたほうがずっと楽なのです。そうすれば、他人から嫉妬されることもないし、重い責任を負わ ずにすみます。それをよしとする理由は人それぞれですが、過去をほり返すより、どうすれば、問題を乗り越える力を発揮できるかを考えたほうが自分の人生にプラスになります。

 間違いなく言えることは、この世界を逃げるようなスタンスで生きることはかえって危険だということです。働くことに最初から意味があるわけではありません。それぞれ個人が意味を発見します。その点、仕事は使い方で生き生きした自分を取り戻す場所になります。あるいはより自主的になる、つまりなれる最高の自分になる場所にできるのです。最高の自分は最高の家族に通じています。

「家族」「家庭」は職場と同じような構造をしています。職場で身に付ける問題を乗り越える力は、そのまま応用できるのです。「何も問題なく人生を過ごせれ ば……」という態度で家族が機能することはありません。機能する家族とは、問題がない家族ではなく、問題を乗り越えることができる家族なのです。問題を乗り越える力を育む場としてこれ以上の場所はないでしょう。

 仕事をするとき、もっとも注意深さが要求されるといって言いすぎではないでしょう。それをストレスと切り捨てることは簡単ですが。実はこの注意深さを通して、自分自身に気がつき、より良くしていくために、自分がとるべき方向と方法を発見できるようになるのです。それは自分と家族を守る注意深さに通じています。仕事は、本来の自分を取り戻す場として、最も有効な場所です。学校も挑戦することを求められますが、職場では責任がついてきます。人によって責任は重く感じるものですが、それがあるから逃げずに向かうことができる勇気を育むともいえます。

 勇気が乏しいからといって、自分を責めてはいけません。仕事は毎日それを問いかけています。だから仕事は人生の中心になるのです。仕事は教師の役割を果たしてくれるのです。


 さて、今日ここでもっとも言いたいことは、安全を求めて世話をされることを求めて、守ってもらえる、依存できる相手を見つけようとすることの危険です。それは必ずしも人ではありません。「○○○○○○依存症」と言われるように依存の対象は様々です。

 時に「失敗する自分依存症」もあります。失敗する自分依存症とは、自分にはできないと都合のいい合理的と思われる理由を見つけます。あるいはやってはみるものの、うまくできないと自ら失敗に向かいます。そして自分には能力がないことを繰り返し証明してみせるやり方が常習化したものです。
 そして自分を責める・・・私たちが気をつけるべきは、「そこにある人生脚本」です。

 失敗を恥じることも悔いる必要もありません。イチローが最高レベルのバッターであっても70%近い失敗をしているのです。問題は「繰り返し証明してみせる態度」です。冒頭にあげたように、仕事をどんなふうにやっているのか、その行動に外見では判断できない実像と人生の挑戦への姿勢を見ることができるように、どんなふうにして失敗したのかです。そこに人生脚本を抱きしめたいまのあなたがいます。

 その人生脚本になにが書いてあるのか、それを読むのが難しい時には「繰り返し証明してきたこと」で翻訳してみてください。つまり同じような繰り返しをしていることはないか?どんなささいなことでもいいのです。発見してみてください。

 繰り返す恋愛のすべてが相手の女性の涙と家庭環境で始まった男性がいました。その男性は、ある日、食事をしていた隣で、同じようなことを語っていた男性に出会いました。彼らは本当にその女性を愛したわけではなく、解決できていない自身の問題に振り回されていたのです。

 ある女性たちは、好きな人と交際が始まると、終止符を打ちにかかることを繰り返していました。彼女たちも解決できていない自身の問題に振り回されていたのです。

 またある女性は、こども時代の父親と母親と自分の関係を、成人したときに、自分を母親そっくりの状況に置いて、母親と同じ状況にご主人を置き、父親と同じ状況に結婚前に交際していた状況に置きました。つまり彼女はずっとこども時代の感情のまま暮らしているのです。こども時代に封じ込められた父親への感情を持ち続けることに成功しているのです。

いま苦しいことがあるのは、偶然ではなく解決すべき課題があるサインなのです。
課題はやっつけましょう!自分の選択と行動で、もっと幸福に、楽に暮らせるようになれるのです。

ライススキル講座

2010年6月2日水曜日

理由をそえて伝える

簡単なことでも唐突に言われると、言われた側は反応に困るものです。自分の中で完結していても、相手は別人格なので、完結したことをぶつけられても困ります。

たとえどんな理由でも理油がないと分からないのです。
分かっていても、別の理由があることもあるからです。

ですから理由があると人は納得もできてしまいがちになります。
よくわからない理由でも「理由がある」ように話をされると、なんとなく納得してしまいます。

たとえば「点検しておきます。」と言われるのと、「不足がないか、点検しておきます。」では、後者の方が断然受け容れられる率は違います。さらに「安全のために不足がないか点検しておきます」と言うと成功率は高まります。ビジネスシーンのテストで明白です。

同じように「お金を貸してください」と言うのと「お金がないのでお金を貸してください」と言うのでも結果の違いは明白です。「家に帰れるかどうか心配です。お金がないのでお金を貸してください」ならよりわかりやすくて納得します。


つけてもつけなくても変わらないような理由でさえそうですから、もっとしっかりした理由であれば、結果はさらに変わります。
よりよいコミュニケーションを願うなら実行は欠かせません。

ところが、よりよいコミュニケーションを願う相手ほど、言わなくても分かってくれるはずと、勝手に自己完結してしまって、言わないケースが多いのです。

その最たる事例が単語しか言わないコミュニケーションです。「お茶」「風呂」「メシ」といった調子です。習慣化すると家族だけでなく外でもやってしまいます。これで通じるのは、相手が読んでくれるからです。
つまり依存しているのですが、その意識すらありません。多くを語らなくてもきちんと理由を伝えるのはマナーなのです。


コミュニケーションが円滑でない人は、まず「唐突であること」に気をつけてください。

頼まれたことを断わる場合、「できません」と言うのと、「今日は約束があるので、できません」というのでは相手の気持は全然違います。その上で気配りの言葉があるのとないのでは、さらに違います。

唐突というのは、正しい、間違っているを超えて、暴力的でさえある印象を与えてしまうのです。
正しいからいい、分かってくれているはずだからいい。

その背景には、「こうあるべき」の決めつけがあります。でも本当は、私とあなたは別人格であることを意識するから、コミュニケーションは楽しいはずです。「普通はこうなのよ」というのは大雑把に世間を語るときに使ったにしても、個人的な関係では、特別な人を特別でないようにされていい気持になることはないので、「普通」はないものとしましょう。


簡単なことほど、お願いするにも、断るにも、ただ結論を言うのではなく、短くてもひとこと理由を添えるようにしましょう。
簡単なことに理由をつける習慣が身につくと、大事なことに理由をつけない習慣は変わります。

「暑いので、窓をあけてください」「時間なので終わります」「疲れているので帰ります」「あなたの傍にいたいのでそちらに行きます」

自分への配慮でいっぱいいっぱいになって、相手への配慮に欠ける。それを繰り返すと負のスパイラルに陥ります。逆回転する脱出の一歩は、どんな小さなことでも理由をつける習慣から始めます。

その時に注意して欲しいのは、言いわけがましくならないこと。相手が、こう考えるだろうと考えないことです。相手に受け容れられそうな理由を考えるにではなく、自分に率直に、誠実になることです。

また、他人を理由に持ってこないこと。「あなたが動かないから私は帰ります」というように理由づけするのもルール違反です。自己責任がマナーです。「あなたが寂しいと思うから、あなたの傍に行きます」って冗談ならあっても本気ならどうでししょう。